IN ASIA

『アジアにて』ティツィアーノ・テルツアーニのアジアを視る眼


 このページでは『IN ASIA〜アジアにて』からの訳文を紹介しています。『IN ASIA』はテルツアーニがアジア特派員としての30年間にわたるアジア滞在のなかで書き上げてきた新聞・雑誌の記事を年代順に一冊の本にまとめたものです。1970年代から1990年代までのアジア各国の重大事件、そして、この30年間にアジアの人々の生活が変わって行った様子を克明に描きあげた一冊となっています。当面は、日本滞在時にかかれた記事を中心に訳出して行くつもりです。

目次

はじまり Orsigna 1998.4
喪 Tokyo 1988.12.12


はじまり

  
長距離走でいつもビリだったから、私は新聞記者になった。当時私はフィレンツェの高校生で、カッシーネ(Cascine)で開かれるクロスカントリーレースには全て意地でも参加していた。結果はいつも最悪だったった、友達を笑わせることは出来たが。あるレースの終わりのことだ、観客が皆帰ろうとしていた時に私はようやくゴールしたのだが、手帳を手にした三十代の紳士が近づいてきて私に次のようなことを言った  
「君は学生かい?もしそうなら、レースを走る代わりに、レースを描写してみろよ!」  
こうして私は16才で我が人生で初めの新聞記者に出会い、初仕事を貰ったのだ。そう、Giornale del mattino 紙のスポーツ記者として。レースを初めは足で、そして自転車で取材し始め、サッカーの試合も取材した。毎週日曜日はダンス・パーティーの代わりに、古いベスパ98に乗ってトスカーナの村々とそこの人々を訪ねて過ごすようになった。   
「通せ、新聞記者だ」  
私が自己紹介すると、責任者達はそう言ったものだ。私はほんの子供で、スポーツにもそれほど興味がなかったけれど、新聞記者の肩書きは私に良い観客席に座る権利と、次の日の市の新聞のピンク色の一ページに(訳注、イタリアのスポーツ紙はピンク色。)私の署名つきで試合の描写と評論の小記事を載せる権利を与えてくれた。この二つの権利ー特権というべきだろうーを私は一生手放さなかった。この素晴しい仕事ーそして生きるための手段ーの与える、事件の最前線にいられる権利、誰にでも、どんな難しい質問でも出来る権利、どんな扉にも鼻先を突っ込める権利、権力者のふところ具合を探りだし、それについて書くことの出来る権利は私を魅了してやまない。  
色々な具合に、様々な言語で発せられた「通せ、新聞記者だ」の言葉は、私の時代の大概は悲しい歴史が通りすぎた様々な場所へと私を導いた。そこには無益な戦争の数々があり、むごい虐殺の墓穴があり、侮辱的な牢獄があり、独裁者の「快適」な宮殿もあった。  
常に、私は「任務」についているという意識を持っていた。現場に来ることが出来ない読者の、「彼ら」の眼となり耳となり鼻となり、時にはその心臓にすらなる任務。「彼ら」はまた読者だけではなかった。  
なぜなら、昨日の新聞で今日は魚を包むというのも事実ならば、ジャーナリズムが歴史をつくるというのも又、事実だからだ。この責任を私は常に感じてきた。だから、細部に注意を払い、事実、数字、名前を正確に伝える努力をしてきた。後の時代の人が歴史のモザイク画を再構築しようとした時に、そこにはめこまれるべき特別な出来事を語った幾つかの小片が正確でなかったとしたらどうなることだろう。  
後に続くページに間違いがないと言うつもりは全くない。ただ、私は間違いのないように努めてきたし、原稿の空白を埋めるためや話を美化するために作り話をしたことは一度もない。記事のいくつかは取材直後、時間に追われて書いた。その他の記事は数日、時には数週間の取材と推敲の結実だ。また、記事のいくつかは純粋なニュースであり、その他の記事ではニュースを用いて、ある国の或いは特殊な状況の肖像の描写を試みた。その全てはアジアに関係するものである。なぜなら、25年以上前からアジアは私の放浪の目的地だからだ。  
なぜ、アジアか。何よりそこが遠かったから私は行った。また、彼の地にはまだ何か見るべきものがある様に私には思えたから。そこに私の知っていた全てのものとは「別のもの」を探しに行った。本で読んだことしかなかった思想、人々、歴史の追跡に出かけたのだ。まず中国語の勉強を始めた、なぜなら中国に住みこの眼で毛沢東主義を見てみたかったから。戦争の特派記者にもなった、なぜならベトナムで起きていたことは私にも関係があるように思えたから。あとは自然に決まっていった。常に家族で暮らした国の選択を含めて、決して生活の便のためでも、誰かに押し付けられたわけでもなく、何かへ強い興味に従って進んだ。
 
新聞記者の有利なところは他の仕事、例えば外交官などに較べてとても自由なことだ。それは好きなことが言える自由だけではなく、雇い主が自分の好きにさせてくれなければ、それを変えてしまうことが出来る自由だ。どこかの国の首都から別の国の首都に転任させられた大使には「いやだ、私はここに残ってどこか他の国の代表をする! 」とは言えない。ところが新聞記者は、そこに残ろうがどこか好きなところに移動しようが、所属する新聞社を変える事が出来る。私はついていた、なぜなら私の記事の編集者を変える事なく、好きな場所に行くことが出来たから。シンガポール1971-1975、ホンコン1975-1979、中国1979-1984、またホンコンに一年、日本に1990まで、タイに1994まで、それからはインド。  
私の幸運は正しい編集者に出会ったことだ。ルドルフ・アゥグシュタイン、シュピーゲル紙( Der Spiegel )の発起人で編集長である。1971年、仕事を探していたこの奇妙な外国人の出現をおそらく愉快に思った彼は、私に仕事を与え、数ヶ月後には通信員にしてくれた。それからの私は一人の「ドイツ人新聞記者」であった。イタリア人でいることも試したことがあるが、クロスカントリーレースの時と同じく、成功したとは言い難かった。当時、東洋に新聞記者がいる、もしくはそれを持つことに興味があるイタリアの新聞はなかった。  
自分のものではない言葉でよく知らない読者に記事を書くことは時に重荷でもあったので、イタリア紙にも時おり記事を送った。こうして、Il Giorno紙、Il Messaggio紙、L'Espresso紙、La Reppublica紙に、1989年からはil Corriere della Sera紙に記事を書いた。イタリア語では主に、後にそれを元にして幾つかの本を書くことになる、私の日記を綴った。  
あとに続くコレクションはこの25年間に書いた純粋にジャーナリズム的な作品から選んだものである。大部分はドイツ語か英語で書いたものの翻訳、後は直接イタリア語で書いたものだ。古いものは薄いタイプ用紙かテレックス用紙に記され、一番新しいものはコンピューターのメモリーに保存されている。いずれも見つけたままに手を加えないことにした。  
電子通信機器の発達ともにこの仕事も変化すると人は私に言う。ショー的なジャーナリズムは新聞記者のプロの倫理を低下させ、小さな真実を追及しようと今だ世界を駆け巡る私のような新聞記者達は消えて行くだろうとも。それは当然なことである。全べて事実であり、残念なことだ。*  
しかし、同時に、私はこう確信している。現実に生活のあらゆる要素を支配している超物質主義と無道徳にもかかわらず、人間の魂の根底にある理想は生き続けるだろうし、生活を冷たいものにするコンピューターに逆らいながら、他の職業と同じくこの仕事も、人の温度と情熱によって生み出され続け、一つの使命として、公共のサービスとして、生きる手段の一つとして存在し続けることが出来ると。  
テレビが世界中の出来事をカプセルに収めて素早く、また浅く、家庭に届ければ届けるほど、まだ耳を傾ける意思がある誰かに語るべきあちこちの出来事を見に行き、探りに行き、感動しに行く者達が必要になってくるに違いない。私はそういうものだと信じている。万が一、そうでないとしたらーそう、私はすでに何度か間違えてきたーさて、絶滅の路を歩む一人の典型の、時代遅れな軌跡を見ていただこう。  

t.t. Orsigaにて 1998年4月


*原作者注: 1993年、例えば私は怒りに燃えて、一連の明らかに虚偽の記事を書いたイタリア人新聞記者を告訴したことがある。結果、なにも起きなかった。今日も一番有名な雁作者の一人がイタリアで最も稼いでいる新聞記者の一人として健在だ。

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喪( Il lutto )

 

Tokyo 1988.12.12

    

銀行員は黒いネクタイをポケットにいれ勤め先に向かう。テレビのアナウンサーのオフィスの壁には喪服が吊されている、家族達の手元には黒いテープのついた国旗がある。
政府とマスメディアが歴史的で盛大な喪に備えて国民を総動員してからというもの、日本政府の要人は誰一人外国に行かず、また外国の政府高官も東京には迎えられていない。「天皇の病状は安定した。そして、日本は意識不明になってしまった。」と、ある東京の新聞者の編集長は私に言った。「この一ヵ月というもの、私達はもはや世界の一部であることをやめてしまった様なものだ。外交は全くしていない。」キャンセルされた数々の外国要人訪日予定のなかには、De Mita(訳注 イタリアの政治家)のものやドイツ外相、中国外相の名もある。ソビエト連邦外Shevardnadzeもこの19日に来ることになっているが、それも今では不確かだ。
天皇の病気に対する政府の余りに急ぎ足の、人騒がせな反応の最も深刻な影響は経済に現われた。政府のキャンセルに範を得て、大企業も宴会や接待を取り止め、おのおのの企業が実業界で孤立した、海外においてそれは顕著だ。約10の市で予定されていた祭と市場が取り止めになった。一般市民達は彼等の祝いごとの殆どをキャンセルした。社交界の中心である有名ホテルも巨額の損害を被った(東京のインペリアル・ホテルだけでも一ヵ月で6億円の損害が出た)。あらゆる接待のおしまいに交換される菓子、絹、そしてお土産の業界は危機に瀕している。数日前、東京の魚市場では1600匹の伊勢海老が売れ残った。これは二つの宴会が出荷直前に取り消されたためであった。数知れぬウエイターとともに俳優、音楽家も、コンサートや舞台の一連のキャンセルに突然失業者となった。
天皇の件と関連を示すキャンセルは一つもない。全てのキャンセルの告知はただ単純に「昨今の特殊事情により」である。日本人の誰もがこれが何を意味するのかを理解し、JISHUKU ( 自粛 )と呼ばれるそれを実行する。今では誰もがその言葉を口にするように見える。  
JISHUKU のために百貨店は小豆の餡菓子を棚から降ろした、それは幸福のシンボルだから。JISHUKU のために花屋は赤いバラを売らなくなった。JISHUKU のために「新しい」「誕生」「おめでとう」などの言葉を含む宣伝広告は中止された、これらの言葉はヒロヒトが死ぬと同時に生まれる新しい時代を連想させるゆえ、不謹慎であるとされたのだ。  
天皇が出血に苦しみ続け、その失血と輸血が一時間に一度のニュースで伝えられるため、全ての「血の」番組、つまりこの国では大人気のプロレス中継などは中止された。  
秋は国内旅行の重要なシーズンで、各地で催される数百の祭に参加するために数百万の人々が列島を縦横に移動する。しかし今年は祭の大部分が取り止めになったため、観光業界と関連業界は大きな打撃を受けた。  
火祭と平安神宮の祭がキャンセルされた京都市は20億円の損害を受け、北九州市は地方の製鋼工場の祝典に参加するはずであった数万人の観光客を失った。挙句のはてに、神田で毎年行なわれる古本市までもが取り止めになった。
日本社会を支配する保守主義が、少なくとも公的には、JISHUKU に従って行動することを全国民に義務づけた。「反対する様な事をすれば、警告を受けることなる」とテレビ業界労働組合の書記長イソザキ・ヒログチは私に言った。「右翼は歩調を乱す者へのいやがらせに活発に活動している。」
日本には様々な右翼グループがいる。そのいくつかは目に見えて、騒がしい。毎日、決まった時間にソビエト大使館の回りで軍艦マーチや反共演説を拡声器から流しているトラックなどがそうだ。またあるものはもっと地下組織的で複雑だ。その他にも殆ど犯罪的なギャング、つまりYAKUZA ヤクザと結び付いたものがある。一ヵ月半前からこれらの様々な右翼の存在がますます威圧的になってきていて、JISHUKU の押し付けの中で愛国的でネオナチ的なそのメンバー達は活性化している。
店主達はJISHUKU の必要を説く奇妙な人々の訪問を受けるようになった。大企業も彼等からこの「昨今の特殊事情により」どのような態度を取るべきなのか「助言」を受けている。  
結果は明白である。東京の大書店はヒロヒトについての批判を載せた本は、曖昧な批判にせよ、全て隠した。会議場の経営者は天皇制の将来について会議を開くつもりでいたグループを断わった。全ての新聞社と、特に大企業のスポンサーを受けている民放テレビ局は、天皇に関する全ての発言に異常なまでに保守的で用心深くなった。  
何よりも気掛かりな現象は知識人達の沈黙だ。今のところ、有名な作家、監督、思想家のうち誰一人として、今起きていることについて、公の場で非保守的な意見を述べようとはしていない。誰も「菊花のタブー」と呼ばれるヒロヒトの第二次世界大戦への責任問題をあえて取り上げない。その理由は死にゆく人への敬意であるとされている、しかし真実はこの国の重要な思想家の一人が、私に彼の名を伏せることを条件に語った言葉の中にあるのかもしれない「今は思っていることを述べるときではない。命にかかわることだ。テロリストの脅迫は本気でしつこい」。  
この曖昧な待機は誰の上にも続く。1989年のカレンダーを印刷するはずの印刷屋も待機している。なぜなら、あらゆる可能性を省みるに、新しい年のカレンダーはヒロヒトの昭和64年ではなく、新しい元号を持つことになろうから。1200人のジャーナリスト達の4つの皇居門前での待機も続く。すでに3人のジャーナリストが心筋梗塞で死亡した。  
この待機の中でJISHUKU は全ての日本人の生活を支配し続ける。心の中では飽き飽きしながらも、人々はJISHUKU の名のもとに全てを受け入れ、善悪の判断をする準備が出来ている。
ある大企業のオフィスで予定されていたゴキブリ(日本にはたくさんいる)の駆除作業が取り消しになったと知らされたとき、社員の多くがこれもまた件の「特殊事情」によるものであり、その決定は、天皇が粘り強く病と戦っているこの時期に、多量の生命を抹殺するのは不謹慎であるということで下されたものであろうと、仏教的な解釈をした。実際は、別の理由があった。単純に、ゴキブリ駆除の作業員が風邪をひいたのである。

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