モントットーネ村から

第2号

2003年11月29日

 さて、「モントットーネ村から」第二信です。前回の通信にあった二枚の写真をモントットーネ村と、勘違いされた読者の方々がいらっしゃったようなので、念のため、今回は正真正銘のモントットーネ村の写真から掲載します。

モントットーネ村中心部全景

↑これがモントットーネ村です。考えてみれば、「モントットーネ村から」と銘うった通信の第一号を他の村、フォーチェの写真ではじめると言うのが、そもそも間違っておりました。前回の第一号が配付されなかった読者のかたは、以下のリンクをクリックして、バックナンバーを入手してください。http://www.mag2.com/m/0000121452.htm 写真でもおわかりのように、モントットーネは難攻不落の中世の城のような場所です(私が住んでいる場所は写真の外の、もう少し攻めやすい場所ですが)。実際に昔は、今の人口1111人からは想像もできない、かなり広い国の首府であったとの話を聞いております。
 前回お話した「村・故郷=パエーゼ=国」という観念ですが、日本でも「お国はどこですか(どちらのご出身ですか)」という言い方がありますね。イタリアでも初めて会う人には同じ質問があります。僕はそれに対して「Sono di quasi Tokyo. ソノ・ディ・クワジ・トキオ(だいたい東京の出身です)」というふうに答えています。そうすると、みんな「ああ、あの大きな街か」となんとなく納得してくれます。
 始めの頃は、真面目に「(神奈川の)座間市の出身です」という風に答えていましたが、そうするとその後に必ず控えている定番第二質問の答えとその後の問答がややこしくなるのです。ややこしくなるのは、私の性格のせいもだいぶありますが。

 定番第二の質問とはこれです。
「ma, quanto grande il tuo PAESE? それで、君のパエーゼはどれだけ大きいんだ?」

単純に、人口を答えてしまえば良いのでしょうが、やはり、もうすこし具体的な姿を伝えたくなるのが人情と言うものです。たとえば、「ローマの十分の一だよ」とか「モントットーネの百倍かな」という風に。
ところが、それが難しいのです。なぜなら、イタリア人の持つ故郷の地図の明確さを、首都圏のベッドタウンで育った私は持ちえないからです。どういうことでしょうか?
 そもそも、イタリア人の町と言うものには中心があります。そのものずばり中心Centro(チェントロ、英語の「センター」)と呼ばれるそこには、町の中心的な教会Duomo(ドゥオーモ)があり、広場Piazza(ピアッツア)があるのです。中心があって、そこから広がる町がある。そこで分かる町の大きさをイタリア人はわたしに尋ねている気がするのです。日本でも地方の小さめの村落や、城下町には、おなじような「中心」の役割をはたす場所があるかもしれませんね(寄り合いのある鎮守さまなど)。ところが、わたしの故郷には中心がありません。市の境目はあるのでしょうが、「座間市の正確な面積をつたえることは、いったい、俺の育った故郷の大きさを正確に伝えることになるのだろうか、、、そもそも、俺の故郷とはどこから、どこまでだ?」と私は大真面目に悩むことになるのです。
 そこで最近では「だいたい東京の出身だよ」という解答をするようになったわけです。そう答えることで、わたしの心の中には皇居を中心に広がる都心部、その周辺にひろがる首都圏、そのなかにあるわたしの家という「わたしの町(パエーゼ)」らしきものの姿が浮かぶわけです。とは言え、「皇居」という中心・チェントロの性格もイタリアのそれとはだいぶちがいますね。みんながあつまるカフェも酒場もないし、広場はあっても集まったりしたらに私服警察にかこまれる、、、

と、ここまで書いて思いましたが、これは「イタリアに来た日本人の問題」というよりは「無限増殖するベッドタウンに生まれた者の悲哀」ということかも知れませんね。

 こんなことを書きたくなったのは、わが故郷にくらべてこのモントットーネ村の地図があまりにわかりやすいものだからだと思います。うらやましいことです。「故郷モントットーネを守るために戦おう!」と言われても、ここならば「おう!」と素直に応えたくなるってものです。
 ところで「イタリア」と言う国がじつはたいへん若い国だと言うことをみなさんはご存知でしょうか。1800年代半ばに統一されたされたばかりなのです。それまでは北部イタリア王国、ナポリ王国、ローマ教皇領、サルデニア王国、シチリア王国と分離しており、そのなかで、ひとつひとつのパエーゼ(村・町)が隷属する小国のような形で存在してきたわけです。つまり、イタリアという「国・パエーゼ」よりは、モントットーネと言う「村・パエーゼ」のほうがずっと歴史のある、住民のDNAに根づいた存在なわけです。
 イタリア人が第二次世界大戦で(幸いなことに)他国の征服にあまり「優秀な」戦果をあげることができなかったのは、秩序ある集団行動がにがてな国民性はさておき、やはりこの「故郷・パエーゼ」への帰属感の強さもあったのではないか、「おらが村をまもるために戦いに来たのに、こんなとこまで来てどうするんじゃ」という「イタリア」に対する不信感のようなものがあったのではないかと私は思うことがあります。
 実際、イタリアではパルチザン(民間義勇軍)が蜂起し、ファシスト・ムッソリーニ政権を倒すかたちで第二次大戦が終結しています。イタリアが第二次大戦時の「侵略国」であったことに対し、日本やドイツのようになんらかの引け目や罪悪感をもっているイタリア人に、私は一人も会ったことがありません。私の知りあったイタリア人たちみな「イタリアはパルチザンとアメリカ軍によってファシストの支配から解放されたのだ」とだけ言います。少々呆れると同時に、うらやましい気もします。
 そんな「イタリア人」たちのこの国は非常にまとまりがありません。日本人にくらべると国家に対して非常にアナーキーな不信感をもっています。税金泥棒や法を軽んじる人が多いなど、この性格ゆえの悪影響も少なくありません。
 ただ……ときどき思うのです「ひょっとしたらこの人たちは、ある日イタリアという国が突然なくなったとしても、なんとか暮らして行けてしまうのではないか」と。
 それはそれで、人間として至極、健全なことであり、ものすごい強さではないか、そう思うことがあるのです。

 右上の写真はローマ・バチカン市国のサン・ピエトロ寺院の彫刻です。こちらにきてから、私が初めて興味を持ったもののひとつに大理石の彫刻があります。石とはおもえない柔らかさで人体を表現するベルニーニの彫刻などが大好きです。いつか、それについてもお話ししたいとおもいます。

 さて最後に……私とイタリア人妻のなれ初めの話し。二行で終わらせてみたいと思います。
むかしむかし、中国雲南省留学中に同級生のイタリア人女性と恋におちた飯田という若者は、はるかモントットーネ村までその尻を追いかけて行ったそうな。どっとはらい。
ええ、そういうことなんです。恥ずかしいんで、やはり二行にしておいて良かった!私について詳しいことは、ホームページ・www.ryosukal.comの自己紹介のページをご覧下さい。



モントットーネ村より、
飯田 亮介


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